『あの夏の日の思い出』

大学1年の時に体験した出来事がビジネスとしての音楽を諦めさせ、教員としての道を拓き、そして今、再び音楽をビジネスとしてとらえることになった良き思い出として私の中で大きなものとしてあります。

『♪1』

大学1年の夏、高校時代からの知り合いでミキサーの平山喜一郎さんから大阪フェスティバルホールで行われる「紙ふうせん」のライブ録音を手伝ってくれへん?と誘いを頂き、同じ状況の茨城の方の車に乗せてもらい、深夜の東名高速で大阪に出向いた。

会場入りするなり機材の搬入、設置、音響チェック、照明合わせ、舞台リハと息つく暇なくスケジュールが進んで行く。しかし飛び交う業界用語の意味が分からない私は、まるで外国に放り出されたようだった。しかもこの日は単なるコンサートではなくレコーディングも行われるので、PA用とレコーディング用の2台のミキシングコンソールが並べられ、それぞれの専門家が自分の要求に妥協せず、かつ相手の気分を損ねないように上手にコミュニケーションをとっている。まさにプロの仕事とはこういう事かと教えられる。しかもこの日は「冬が来る前に」という新曲が披露される事になっていた。

当時大学でも演奏の録音業務は一手に引き受け、将来は舞台関係の仕事に憧れていたが、周りを見渡すといわゆるおじさんがこの場にいない。この仕事がキラキラして見えた反面、一生の仕事にはできないかもしれないという儚い夢を見せられたような一日だった。

『♪2』

人生初のライブレコーディングの体験となった「紙ふうせん」のコンサートは無事終了。しかし、それぞれの想いを抱きながら帰路につく観客がはけてからが、再び私たちの仕事だ。設置した音響機材の撤収である。

関係者しかいないホールの中を駆け回り、汗だくになりながら機材を箱詰めにしてトラックに積み込んで行く。そして会場から離れたトラックが停められる場所に車を移動し、そこから猛ダッシュで打ち上げ会場に向かう。しかし、既に宴もお開きを迎えようとしていて、当然私たち音響スタッフの席はない。すると先ほどまでステージの上でリードボーカルを務めていた平山泰代さんが残った料理を集めてきてくれて、「お腹すいたでしょう!ご苦労様、さあ食べて食べて!」と勧めてくれた。

ありがたい。そして、残り物でへとへとになった体の胃を満たし、音響スタッフは近くの旅館の狭い畳の部屋に雑魚寝する。翌日は早朝に神戸での仕事に向かって出発。トラックの助手席でうたた寝しながらも、心は何とも言えない充足感に満たされていた。

『♪3』

あの大学1年の夏から数か月が経過しても一向にライブレコードが発売される気配がない。その一方で「冬が来る前に」だけがシングルとして発売されたと知り、早速買い求めてレコードに針を下すと(まだCDが世に出る前で当時はレコード)、それは大阪フェスティバルホールで耳にした「冬が来る前に」とは全く別物の音楽だった。

自分の記憶に刻まれた「冬が来る前に」は、アコーディオンサイズの小さなパイプオルガンの前奏から始まり、その後フォルクローレ(サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」が有名)のチャランゴ(南米アンデス地方の民族楽器)のリズムに乗った哀愁を帯びた曲調だった。まさに過ぎ去った夏の思い出を愛おしむような回想の曲だったのだ。

しかし、発売されたのはシンセサイザーの前奏から始まり、その後ディストーションの効いたエレキギターの「ラーシードー、ラシド」のオスティナートによるグルーブ感たっぷりの曲に生まれ変わっていた。確かにこれはイケると直感した。でも何か違う。これでは「巡り会いたい」という運命に身を任せようとする貞淑な女性の歌ではなく、「逢いに行きたい」という行動的なイケイケ姉ちゃんの歌になってしまう。

結局私が参加したライブレコードが発売されることはなく、全く違うアレンジの「冬が来る前に」が世に出ることになった。しかしこの曲はキャンディーズやピンクレディーらとオリコンチャートを競うまでになって行く。

『♪4』

大学1年の秋に発売された「冬が来る前に」は45万枚のセールスを記録し空前の大ヒット曲となったが、私の耳にはフォルクローレ調の哀愁を帯びた「冬が来る前に」がいつまでも残っていた。

紙ふうせんのバックバンドのベーシストでこの曲を作曲した浦野直氏によると、冬が来る前に古びたストーブを引っ張りだして掃除をしている時に閃いた曲なのだそうだ。作者は季節のうつろいの中で薄らいでゆく記憶を作品にしたためようとしてフォルクローレ調に仕上げた。

しかし、それでは売れない。レコード会社はそう判断し、全く違う曲に仕立てたのだろう。しかし、いくら売るためとは言えここまでやるか?作者の意図などお構いなしのレコード会社の姿勢に怒りを通り越し呆れるしかなかった。所詮音楽ビジネスなんてそんなもの。こうして私の気持ちは急速に冷めていった。

そして舞台関係の仕事に就くこともキッパリと諦め、実家に近くて学費が安いというだけで選んだ大学であったが、営利に左右されない教職の道に進むことを決意する。やがて教壇に立ち数年が経ったある日、「冬が来る前に」のヒット以降、しばらく連絡をとってなかったミキサーの平山喜一郎さんから久しぶりに連絡が入った。

『♪5』

平山喜一郎さんの奥さんは群馬県太田市の出身で、今度奥さんの実家に里帰りするので、当時私が住んでいた太田のアパートに遊びに来るという。久しぶりの再会をまずい手料理でもてなしたが、酒が進むうちに喜一郎さんから出た言葉は思いもよらないものだった。

「実は俺、本当は教師になりたかったんや…」「だって自分の考えを一瞬に何十人という子どもに伝えることができるやろ。そして、その一言で生徒の一生にかかわって行ける仕事なんて他にあらへんやろ。」

喜一郎さんは教師の道を諦めて舞台の仕事を選んだ。自分は舞台の道を諦めて教師の仕事を選んだ。私は父親が教師だったこともあり、教師のいい面も悪い面も知っていた。その分教師という仕事を改めて客観的に考えてみた事がなかった。だから二人の人生が交差した瞬間、喜一郎さんの言葉が胸に刺さった。

そうだ、自分は生徒の一生にかかわって行ける教師を目指そうと。それは部活指導に心血を注ぐ教員生活の始まりだった。

『♪6』

大学1年の夏に経験したコンサートのライブレコーディング。それがお蔵入りして、全く違う曲として生まれ変わり大ヒットした「冬が来る前に」。作者を無視した音楽ビジネスへの失望。そして教職を歩き始めた自分を支えてくれた「生徒の一生にかかわれる教師という仕事」という言葉。そして、数え切れないほどの生徒との出会い。

自分はどれだけ教え子たちの人生にかかわれているのだろう?Facebookを再開して以降、反応してくれる人の大半は教え子だ。あれから何十年も経っているのに、まだ繋がってくれて、それぞれの異なる今を共有している。自分が40年弱の教職人生で残せたものは教え子しかないと痛感させられる。

だから、これまでの経歴とプライドは全部最後に勤めた学校に捨ててきた。これからは教え子たちの人生にかかわりながら、「音楽を職業としてしまったハングリーな人たち」を支えて行くことをセカンドライフの生きがいとした。そして大学1年の時に失望し諦めた音楽ビジネスに改めてチャレンジしてみようと、気持ちは大学1年の青二才だったあの夏の日の頃に戻っていた。

『♪7』[おまけ]

中三の時、バンドを組んで文化祭で演奏するために「翼をください」を学校で練習していたら、当時の音楽の先生に「こういう曲は学校ではやってはいけない!」と怒られた。音楽室を追い出された私たちは場所を変えて練習を続けるが、その度先生がやってきてまた追い出されてしまう。

そしてついにトイレの個室に立てこもり、狭くて斜めにギターを傾けながら「翼をください」を歌った。その時の理不尽さと悔しさを担任の先生にぶつけたら、「だったらお前が音楽の先生になって『翼をください』を教えればいいじゃないか」と諭された。まさかその一言が自分の人生を決める事になるとは思わなかった。

話は飛ぶが実は佐藤美香のデビューアルバム『風笛』には「翼をください」が入るはずだった。レコーディングも終わり、同曲の著作権を管理する会社からの許諾を待つだけだったが、いつまで経っても回答が来ない。確認すると東日本大震災を契機に東電を辞めてフリーランスのミュージシャンになったという経歴が社内審査に引っかかったという。

正直「はっあ?」という感じだったが、政治的背景があると誤解される可能性のある音楽家には協力できないとの最終回答をいただき、断腸の思いで「翼をください」を外すことにした。またしても大人の事情で捻じ曲げられる音楽ビジネスの世界。なぜか私の人生において「翼をください」には良い思い出がない。

「悲しみのない自由な空へ、翼はためかせ行きたい!」そのまんまである。
でも人間生きていれば晴れの日も雨の日もあるように、良いことも悪いこともある。だからこそ、早くコンサートが開けるようになって、佐藤美香にお蔵入りした「翼をください」を演奏させたい!(完)


代表SNS

  

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です