小雪のハンガリー音楽留学レポート【第8回】

 

第8回 民族と言語①

  今回は、ハンガリーの民族と言語に関してのレポートです。ヨーロッパにおける内陸国の歴史がどのように成り立ってきたのか、ひとつの国として認められるまでの経緯について触れながら、これらのテーマに沿ってレポートにしていこうと思います。

—民族の遍歴

  このヨーロッパという大陸で、世界史に歴史を刻んできた数々の戦争や革命がどれほどあるのか、またそれらが与えた影響はどのようなものだったのか、想像をするだけで圧巻させられ、一方で悲痛な思いを感じます。ハンガリーは国名の変更がつい十数年前に行われ、正式にハンガリー共和国からハンガリーへと成り立ったのは2012年という事実に、今もなお歴史に変動があることに驚かされました。そうした背景において、必ず影響を受けているのが、人々のバックボーンである民族問題です。20世紀後半以降は個人の自由が重要視され始め、今では誰もが承知している事ですが、各国が一国家として形成され始めた頃は、民族の団結が重要であったと考えられます。それもそのはずで、同じ領地の中で各々の民族がせめぎ合っていたために、外部からの侵攻にも備えなければならない逼迫した状態だったのでしょう。この激動の時代にハンガリー国民の祖先とされ、今なお受け継がれているマジャール人は、どのような歴史を刻んできたのかを知らなければなりません。

歴史上確認されているのは、現在のロシアを東西にわかつように南北に並んでいるウラル山脈が原住地であったと考えられるマジャール人は9世紀頃、西ヨーロッパへと移動し始めたことから、先にいたキリスト教を信仰する各国からは侵入者として扱われ、ドイツ国王を筆頭として撃退に合い、それ以上西進は出来なくなったため東方に後退し、現在のハンガリーにあたるパンノニア平原に戻り、その地で定住生活に入ることとなりました。しかし、西ヨーロッパで十字軍運動が始まり、民衆のなかに自発的に起こった民衆十字軍の一部がハンガリーに入り、マジャール人を異教徒と思い違いをして襲撃し、反撃したマジャール人に殺害されるという事件が起きてしまったのです。

 上記に民族同士の団結が重要と触れましたが、内陸国の間での地位は宗教によって影響されており、今なお移民問題が議題に浮上する背景から、人々にとってそれだけ深い意味合いを持ち合わせているのだと感じさせられます。ドイツからの奇襲後、互いの平和の為か、当時国家を統治していたヴィエク公(のちにイシュトヴァン1世と改める)が洗礼を受け、キリスト教文化を広めることに貢献し、ハンガリーはキリスト教国家として成立したそうです。彼の洗礼後の名前は、現在のハンガリーの最も高い建造物ともされているイシュトヴァーン大聖堂にちなんでいます。

 

【脚注:イシュトヴァーン大聖堂、大きさと高さと存在に圧倒されます。聖堂の目の前は通りが開けていて開放感もすごい。】

 13世紀に入り、勢力拡大をしている大モンゴル帝国からの侵攻が各地で起こっている中、その一つにハンガリーも含まれていました。当時の国王ベーラ4世を筆頭に対抗した結果、厳しい冬の季節であったことも味方し、大モンゴル帝国からの支配から逃れました。この国王の名前もまた、ハンガリー国民には有名な名前の一つであり、ハンガリーを代表する作曲家バルトーク・ベーラもその一人で、こういった背景から人々に定着したのではないでしょうか。国家の英雄とも言える人々を、自身の名に刻む習性はヨーロッパの特性と言えます。今もこの習性が続いているようで、キリスト教を信仰する人たちは、別名とも言える洗礼名を持っており、ほとんどの人がミドルネームとしているそうです。15世紀はハンガリー最盛期とされ、歴史上最大の領土を誇っていたそうですが、その当時同じく勢力を増していたオスマン帝国と神聖ローマ帝国に追い打ちに合い、どんどんと領土が縮小化していったそうです。多くの戦いに挑み対抗したものの、戦いに敗れ、ハンガリーは領土を3分割されることになり、一つはハプスブルク領、一つはオスマン帝国領、一つはオスマン帝国が宗主権を握る東ハンガリー王国となり、これはその後約130年間続いたそうです。どの領土にも正式なハンガリー王国の主権がなく、まるで幽閉されているような状況だったのか、至る所でそういった王家や国民の心情が窺えます。このオスマン帝国が介入してから中東の食文化が広まり、その一つとしてハンガリー最大の生産を誇るパプリカが定着するきっかけとなったそうです。元々は、スパイスの唐辛子が人々の暮らしに流通するようになり、後に品種改良を行いより食べやすくなったことが、パプリカの誕生へと繋がりました。今なお、ハンガリー国民的料理や国民的調味料として親しまれており、こうした歴史背景が関与した出来事が、食の伝統として受け継がれている事を身近に感じられます。日本にも多くの文化が受け継がれていますが、島国と内陸国での伝統の維持の持つ意味合いは大きく違うようです。

 さて次回は、さらなる民族と言語の歴史的背景について、多くの領土を失い主権をも失った状態の中で、どのような言語は意味合いを国民に持たせたのか。また、いわば3カ国の関与がある中で、どのような文化が誕生し定着していったのか、そうした内容をさらに紹介していきたいと思います。