第10回 民族と言語③
3回に渡ってのハンガリーの「民族と言語」に関してのレポートも今回が最終編となります。ヨーロッパにおける内陸国の歴史がどのように成り立ってきたのか、ひとつの国として認められるまでの状況についても触れながら、これらのテーマに沿ってレポートしていこうと思います。
—民族の遍歴③
20世紀に入ると世界大戦が勃発し、各国での情勢がさらに大きく変化していきました。世界第一次大戦で1918年の終戦により、当時のハンガリーを実質支配していたオーストリア=ハンガリー帝国が敗戦したことで、ようやくハンガリー共和国として認められました。そして、翌年の1919年に社会主義国として権力を持っていたソヴィエト連邦に倣い、ハンガリー共和国でクン=ベラ首謀を筆頭にハンガリー革命が勃発し、社会主義的政権のハンガリー評議会共和国が樹立されました。彼は一次大戦で軍に招集され、戦いに行くも敗戦した為にソヴィエト軍の捕虜として捕まり、二月革命を機に解放されました。この捕虜期間から、彼の思想が芽生えたのでしょう。
しかし、反革命軍の弾圧により政権は失脚し、革命首謀者はソヴィエトへと亡命したため、この政権はわずか5ヶ月で終わってしまいます。やっとの想いで自国へ戻り、ハンガリーの行く末を思い革命を起こし、ようやく兆しが見えた矢先に失脚し、亡命を余儀なくされ、さらに亡命先のソヴィエトでスターリン政権の粛清により処刑されました。
革命後に改められたハンガリー王国では、立憲君主国としながら実質国王は不在のまま、1919年8月の革命で国民司令官を務めていたホルティがトップの座に就きました。この間、1918年から19年にかけて、ハンガリーは4つの政権を経験するという、異常な歴史が刻まれたのです。その訳は、人種的にマジャール人で相応しい人物がいなかったことが要因とされています。すなわち、国家としての歴史の不安定さが関係しているということでしょう。
その後、1930年代にドイツでナチス政権が台頭したのを機に、領土奪還の好機ととらえ、後の日独伊三国同盟に参戦し、第二次世界大戦へと突入しました。この背景として、当時ハンガリー王国のトップにいたホルティの権限は絶対的なもので、あらゆる権力行使が可能な一方で、ヒトラーやムッソリーニの独裁政治ではない、異例的な権威主義体制があったそうです。彼を含めた多くの国民が、国家発展の先駆けとして、まず領土をどのようにして回復出来るのか、これが大きな課題であったことには間違いないでしょう。この第二次大戦では、ハンガリーはドイツ軍の一部として招集されたものの、次第に敗戦が差し迫った状況から、敵対していた連合国へ打開策を提案しようとするも、ドイツ軍に軍事圧力で阻止され、ソヴィエト軍の侵攻を許してしまうことになりました。
当時のハンガリー東部が解放され、そこから臨時政府が複数の政党によって成立しました。この敗北や侵攻を受けて司令官のホルティは亡命し、ハンガリー王国は崩壊しました。このソ連介入から独裁的社会主義国家が樹立され、ハンガリー人民共和国と改められました。後に1959年に反ソ連暴動が勃発するも、ソ連軍の制圧により多くの国民が犠牲になる悲惨な事件で幕を閉じました。この暴動の記憶は、今なお国民に根強く残っていて、ソ連的支配により国旗にソヴィエト連邦のシンボルが入っていたのを、その紋章をくり抜いた国旗を掲げていたことから、革命や暴動を記念する日には現在の国旗にあえて大きな穴を開け、よりハンガリーの独立を祝うという風習が残っています。
【ブダペスト市内の至る所にモニュメントがあり、それぞれの人々がハンガリーの歴史に寄与した背景がある】
その後も、幾度となく革命や暴動が起き、現在のハンガリーが成立するまでには様々な歴史がありますが、ざっくりとここまでを紹介とさせていただきました。
【より深く、特にナチスとソヴィエト政権による影響下のハンガリーの歴史を知りたいとあれば、恐怖の館へ行くことをお勧めします】
—現代の様子②
前回に紹介した体験談の続きとして、観光名所を巡った時にハンガリーの建国記念日がありました。毎年記念日である8月20日の前後3日又は4日間に渡って国中が祝福モードになり、記念日前日には、国会議事堂や鎖橋などのブダ川に面した各場所で、色とりどりのプロジェクションマッピングが街を活気付けます。記念日当日には約何百発という花火が打ち上げられ、これでもかと盛大に祝うようです。
【建国記念日の週間の国会議事堂前の様子、大きな国旗の垂れ幕があり迫力がすごい】
ちょうどその時、両親がブダペストを訪れていたので、ブダペスト巡りを堪能しましたが、やはり建国記念日の街の賑わいは尋常ではありませんでした。惜しくも、夜21時開催が予定されていた花火打ち上げは、雨天候により22時に変更になったため、私たちは疲労困憊だったので帰宅を決断し、騒音のように鳴り響く花火の音のみを楽しみました。
では、建国記念日が生活にどのような影響を与えているかというと、美術館や博物館が入場無料になったり、ブダ城から下った漁夫の砦に続く広場ではたくさんの屋台が軒並み連ね、公共交通機関は記念日当日の夜から地下鉄以外運行停止となったりと、ハンガリーの人たちの愛国心が感じられました。
【ブダ城付近では馬に乗った兵隊さんが颯爽と表れて驚きました】
【ブダ城から漁夫の砦へと続く道で、沢山の屋台が並び、色々な伝統工芸品なもを見て楽しみました】
しかし、花火打ち上げ変更後はどうだったかというと、はっきり言って大混乱で悲惨でした。まず、私たちが鑑賞しようとした場所は地元民のみぞ知る辺境だったので、たまたま居合わせた定点カメラを持ったスタッフの声がけにより、花火打ち上げ変更が判明し、急遽判断を委ねられる事態になりました。
【打ち上げ花火を観ようとした場所、かなりの僻地だったようで周りは皆ハンガリーの地元民】
すぐそばにいた公園付近にいた人たちは、一人のスタッフの声が聞こえる訳もなく、予定時間の21時に虚しい空を見上げていたのには同情しました。更に引き返す為に唯一運行していた地下鉄の駅へ向かうも、一斉に帰ろうとする人で人混みが何キロにも渡り続いていたので、押し潰されながら駅構内へ入れられました。たまたま、私の住んでいるアパートは地下鉄の駅から徒歩で帰れる距離で良かったものの、あの日のごった返しには参りました。
ただ言い換えれば、それだけ多くの人々が建国記念日に興味関心があり、自国に誇りを持っていることの表れだと思います。知り合いの人の情報では、一昨年か昨年の開催時に、天候が雨天になるとの予報を受け開催見送りになったのが、当日は快晴で決行可能だった事が判明すると、当時の気象庁のトップが辞任に追い込まれたそうです。それも、全ての催しは国民の税金が注ぎ込まれているので、なんの為の納税だと怒ったのでしょう。日本では災害等の生死が関わる以外では、まずあり得えない事態だと思いました。
さて次回は、最近のハンガリー情勢についてレポートしたいと思います。ここ数週間でのヨーロッパ圏内での自然災害が問題となり、ドナウ川が氾濫しすごい光景を目の当たりにしました。それも、陸地や川が繋がっている内陸国の特有からきた災害だったそうです。他にも、オリンピック開催などの世界規模の催し物の重要課題として挙がる、移民問題についてなど、これら最新事情について紹介していければと思います。