オーボエ奏者”佐藤美香”の1stアルバム『風笛』ができるまでの製作秘話、後半になります。彼女が音楽と向き合ったとても濃密な時間を振り返ります。
もくじ
5 クラシックは苦手なんです
そんなこんなで販促CD「オーボエの音浴時間」のレコーディングが終わり、最初に録画しておいたビデオとの違いを比べてみると彼女自身が一番驚いていた。販促用の無料配布用のCDだけど、今までの演奏のクオリティーと比べて雲泥の違いである。
そして彼女は直後のコンサートで常連の方々をお招きしてCD「オーボエの音浴時間」をプレゼントしたが、そのコンサートにいらした方々から出た感想は「今までと全然違うね」「早速家に帰ったら聴いてみます」というお褒めの言葉をいただくことが出来た。失敗は反省となって自分自身を振り返らせ、成功は自信となって自分自身を奮い立たせる。そして彼女から出た言葉は「今回は無料でしたが次回は有料なので、それに恥じないCDにします。そして1000枚作って完売させ、その利益をセカンドアルバムの資金にします!」つくづくダメ女はチョロいとほくそ笑む。
でもその意気込みはこれから作ったCDの営業を通して販売して行くエネルギーになるに違いない。とにかく熱量だけが取り柄の女だ。CDは子どもと同じだ。でもまだこのダメ女はそのことの本当の大変さを理解してない。産んだ子どもは産み直すことができない。そしてレコーディング会社と制作に向けたスケジュールを協議し、4月の発売に向けて2月一杯までにレコーディングを行うことを確認する。そして選曲、伴奏のMidi音源の作成、音楽畑のスタジオでのプレレコーディング、本番レコーディング、編集作業、ジャケットデザインやライナーノートの作成、著作権申請、発売日の決定等々、彼女にとっては未体験の意味不明な言葉を理解できぬままスケジュールがどんどん決まって行く。
彼女は、私は何のことだか全然分からないのですがどうしたらいいんでしょう?と、時折不安げな表情を見せるが、私の言うとおりにしていれば大丈夫だからという何の説明にもなってない言葉で納得させる。やはりチョロい女だ。でもミーティング終了後、時間をかけて丁寧に一つずつ説明してあげましたよ。
そして彼女のやりたい曲を選曲させ提案させる。概ね自分が考えていたものと大差なかったが彼女にはカテゴリーという概念がなく、好みと勘で選んでいるように思えた。そこで彼女の選んできた曲をオールデイズ、映画音楽、ポピュラー、クラシックというカテゴリーに分類してやるとクラシックの曲が極端に少ないことが判明した。彼女にその理由を問いただすと「クラシックは苦手なんです」
なんと正直なダメ女なんだ。そりゃ生まれてあっという間に消えてゆくポピュラーと、結構長く愛されているオールデイズや映画音楽に比べて、クラシックは何百年も廃れることなく生き続けてきたのだから簡単ではないのは分かる。でもその価値に目を反らし戦いを挑んで行かないのは何故なのかと逃げ道を塞ぐと、数日後に私が想定していた曲と同じ曲を選んで来た。やればできるのにどうして自分からやらないんだ!(2回目)
だがこの選曲が彼女を本当の意味で苦しませることになるとは、この時点で知る由もなかった。
6 やればできるのにどうして自分からやらないんだ!
例年に比べて暖冬だったおかげで、強風の影響を受けることなく音楽畑のスタジオでのプレレコーディングがスタートした。期間は4日間。その後二日間の準備を挟んでホールでの本番レコーディングというギリギリのスケジュールだ。
まずは販促CD「オーボエの音浴時間」にも収録され『風笛』にも再収録する曲のブラッシュアップだ。3000円で買ったCDのクオリティーが無料でもらったCDと同じだったら、買った人が許さないだろう。こういう曲こそレベルアップが必要だ。前回同様、録音してはダメ出しをされてを繰り返す。すると彼女の機嫌は次第に悪くなり、明らかに集中力を欠き始める。こういう時は頭を冷やさせるしかない。役者で言ったら演じている佐藤美香ではなく、役そのものに成りきらなければならない。だから同じ旋律、同じ和音、同じ場面であっても、一番と二番と三番の歌詞の違いから、気持ちの入れ方、歌い方、フレージング、アーティキュレーションの表情の違いなどを丁寧に確認して再度収録に臨ませる。
もうこうなるとわがままなお嬢様に仕える執事のような気分になって悲しくなる。
そんなこんなで何とかポピュラー系の曲を仕上げるが、クラシックの曲だけはどうにも手に追えない。何百年も生き続けたという事は、その間マイナーチェンジを繰り返して品質向上を図ってきた曲である。当然聴く側の耳も肥えてきているから、そこそこの出来ではOKにならない。今から50年前の1970年にヒットした森進一、ちあきなおみ、和田アキ子が2020年のヒットチャートに復活するくらい難しいことなのである。
時代は変わっても本質は変わらない。とにかく始まりの音がどこに向かって進んで行き、どこに到達するのかを徹底的に分析する。セリフが次のセリフに呼応し、それが積み重なって行く中で場面が構築されて行く過程をドラマの台本として完成させ、ストーリーを知らないリスナーでも演奏を聴いて一編の小説を読み終えたような気分になって貰えるように、作曲家が書いた台本を根気強く追いかけて生命を与えるしかない。
クラシックはポピュラーのように一定の形式(イントロ+Aメロ+Bメロ+サビ)の一番、二番というような構成ではないので、クラシック作品はとにかくゴールの頂上が遠く高い。そうなるとダメ女はすぐグレて悪態をつく。「無理です!」「ダメです!」「できません!」「もういいです!」いつもこのセリフのループである。でも彼女は悪態をついてガスを抜くと気が済む性格のようで、その後はグッと集中力が蘇り信じられないくらいよい演奏をすることがある。やればできるのにどうして自分からやらないんだ!(3回目)
とにかくクラシックの曲には苦しんだ。おかげで彼女の音楽性は一曲仕上げる度に研ぎ澄まされて行く。やはり高い頂に挑戦すればしただけ得るものがある。
自分では無理と思っても、それを諦めずに導いてくれるコーチと二人三脚だったら、やりきることは不可能ではないのだ。そして苦しい局面を乗り越えさえできれば、それまでは七転八倒して演奏していた曲なのに、それ以降は涼しい顔で何も言われなくても自分で曲を作って行くようになった。やればできるのにどうして自分からやらないんだ!(4回目)
朝からお昼を挟んで夕方まで吹きっ切りのプレレコーディングだったため、シェフヒロサワのランチタイムが佐藤美香お嬢様には良い気分転換になったようだ。食べきれなかったものはそのままタッパーに入れてお持ち帰りの毎日。そしてこちらが設定した到達目標ラインを超える曲が何曲も出来上がり、満を持して本番ホールレコーディングに臨むことになった。しかし思わぬアクシデントが彼女を迎えることになる。
7 ダメ女が恋に身を焦がすイイ女に
いよいよホールでのレコーディングの日を迎えることになった。まずはマイキングである。すなわちマイクの設置場所と使用するマイクの機種選定とマイクの高さと角度の調整である。これについてはオペレーターをお願いしたTMRの佐藤さんと事前に打ち合わせをしておいたので、目の前、5m離れた位置、10m離れた位置の三ヵ所に指定のマイクを設置してもらい、ホールの響きをモニターしながら高さと角度を決めて行く。
ここまではスムーズであったが、2月末のホールはエアコンをフル稼働してもなかなか暖まらず、ウォーミングアップを始めても楽器が暖まらないのか音にいつもの伸びと明るさがない。これは運動と同じで楽器が冷えていると楽器も本来の性能を発揮できないのだ。仕方なく彼女にコートを羽織ってもらい、そのコートの中で楽器を温める抱卵作戦を指示する。気休め程度だったが若干鳴りが戻ってきたため、吹き慣れたレット・イット・ビーから収録開始。
だけれど明らかにいつもと調子が違う。演奏に力が入り暴走気味の演奏になっている。つまり想いが強過ぎて自分の気持ちがコントロールできていない。これだから熱量だけの単純ダメ女は簡単に自分の身を焼き尽くしてしまうのだ。しかも何がダメなのか全く気付いてないから、どんどん逆の方向に突き進んでしまう。落ち着け!落ち着け!まだ一曲目だというのにもう気分はグランドフィナーレみたいに完全に自分に酔いしれている。これじゃダメ女というより、バカ女丸出しじゃないか。
何度もリハーサルを繰り返すがどうしても力が抜けない彼女に痺れを切らして、仕方なくオペレーターの佐藤さんに「それでは本番お願いします」と告げてエアコンのスイッチを全部オフにしてもらった。これは録音に際し空調の音をマイクが拾ってしまわないように、本番の時はエアコンを全て停止させるのだ。するとようやく暖まってきたホールの温度がみるみる下がり、先ほどまでの汗だくの演奏が一転ミイラのように凍りついた演奏に変わり粗熱が取れて奇跡的に丁度良い塩梅のテイクを録ることが出来た。
お前は変温動物か!本能で生きている人間は環境に左右されやすいことを改めて知る。しかし、誰よりもビートルズを愛しながらもビートルズ脱退を決心したP.マッカートニーのやるせなさを表現することが出来た。時間はかかったがそれでも何とか一曲目を乗り切ると、二曲目、三曲目は余裕でOKラインに到達。このまま楽勝が続くかと思ったが、やはり目の前に立ちはだかったのはクラシックの曲だった。
特にラフマニノフのヴォカリーズには苦しんだ。どうしてもギアを上げるタイミングが早い。頭では分かってはいるのだろうがどうしても気持ちが先走ってしまい、肝心のところでガス欠を起こしてしまう。逆にギアを上げるのを遅らせると今度はゴールに辿り着けない。まるでアップダウンの激しいグリーンのパターと一緒だ。そして定番の「無理です!」「ダメです!」「できません!」「もういいです!」の無限ループが始まる。
しかしこの曲はミュージシャン佐藤美香の真価が問われる曲だ。よくポピュラーの人がクラシックの曲を歌って幻滅させられることがあるが、この曲はまさにそれに等しい。彼女自身の恋愛経験については知る由もないが、追えば逃げる、逃げれば追うのが恋というものだ。そのイタチごっこに例えて最後のフレーズで相手とひとつになって燃え上がり灰になれ!と良い歳をしたオヤジが何言ってんだと言うような意味不明なアドバイスを送り、オーボエが苦手な最高音で頂点に達して時が止まり、燃え尽きるような演奏が一回だけ録れた。
彼女に「体が火照ってきたか?」と問うと「何で分かるんですか?」と言う返事が返ってきた。それでいいんだ。この曲は女の業を現した曲であり、全身全霊を込める事で初めて生命が宿るものなのだ。ダメ女佐藤美香が、恋に身を焦がすイイ女佐藤美香に変身した瞬間だった。
8 基本は演奏がしっかりしていたから
DAW(Digital Audio Workstation)が発達した今日、楽器を全く演奏できなくても、五線譜が読めなくても音楽制作ができる時代になった。更にはボーカロイドなどの技術を使えば、全ての音が電子的に作り出せる。だから実際の演奏は全体の1割程度で、残りの9割は編集次第だと言う人もいる。
今から25年前、当時前橋商業高校吹奏楽部では定期演奏会の実況録音CDを制作して販売していた。もちろんアマチュアの演奏だから本番での事故は付きもの。だからリハーサルも全て録音しておいて、事故の場所はリハーサルのものと差し替える。更に事故とまでは言わないけれどイマイチの所も差し替えて、できるだけ後世の人が聴いても恥ずかしくないものに編集して販売していた。一番継ぎはぎした曲は、120カ所以上差し替えたものもあった。そうなると確かにクオリティーは上がる。だが本番の拍手はその時の演奏に対するものだから、冷たい拍手を別な曲の拍手に差し替えるという詐欺師的なことまでしていた。
時は流れ、今では差し替えるというのは極初歩的なことで、今やDAWによって音程やタイミングの修正、音形や音色や響きまで修正できてしまう。まさに同一人物とは思えない程の画像修正技術のそれと同じである。確かに技術が発達して修正が可能なったのだからそれを使わない手はないのだろうが、生演奏とCDとの差がありすぎるのは決して本人のためにならないと思うし、クラシックの場合はやはり生演奏が基本だから、聴衆に今日は調子悪かったのかしら?と思わせるのも失礼だ。
そのため、今回の『風笛』は最低限の修正に止め、生演奏でも再演可能な範囲の薄化粧を施すことにした。そのため、音程とリズムのずれは一切加工してない。電子音なら完璧な演奏は可能だが、逆に人間らしさがなくなってしまう。最も加工したのはマイキングで差をつけた三カ所のマイクのミキシングだ。近いマイクは演奏者目線で、中間のマイクは聴衆目線で、遠いマイクはホール目線で音を捉える。言いたいことをガンガンぶつけるような曲なら演奏者目線の音が合う。曲を聴いた人がイメージを膨らませるような曲なら聴衆目線が合う。奏者と聴衆が一体となった暖かい曲ならホール目線が合う。更にリバーブ(エコー)やディレイ(反射)やイコライザー(音質)やパンポット(音像定位)などのエフェクトをそれぞれのマイクで拾った音に加工を施し、ミックスダウンを行う。これで音の化粧が完成した。
今まで何回も編集作業を経験してきたが、上手く行くのも行かないのも、イメージを伝えそれに応えてくれるオペレーターさん次第なのだ。端的に言えば言われた通りのことしかしない人が40%、クライアントのイメージや要望など関係なく、自分が良いと思ったことを勝手にやってしまう人が30%、相手のイメージや要望に近づけるために様々な提案をしてくれる人が20%、クライアントのイメージに近づくために、作業に入る前に相手としっかりコミュニケーションを図ってから仕事に取り掛かる人が10%という感じだろうか。
今回のオペレーターのTMRの佐藤さんはまさのその10%の人で、「この曲はこうしたいって言っていたので、こことここをこういう風に加工してみたいと思います」と説明してから作業に取り掛かる人は私にとって初めてだった。今までの人はほぼ全員ディテールからコアに向かって行くため時間ばかり掛かってしまい、なかなかお互いが納得できる作業にならないことが多かったが、今回はお互いのジョブを讃え合うことができ最高の仕事ができたと自負しているし、またこの人とやりたいという人に巡り会うことができたのが何よりの財産だ。
当の佐藤美香さんは最初二人の会話に全く入ってくることができなかったが、自分の意見を求められる度にコメントも徐々に的確なものになり、何より音の化粧ってこうやってやるんだということを知ることができた。その後、ジャケットデザインや盤面デザイン、ライナーノーツなども納期までに仕上げることができ、一通りのCD制作の工程を完了することができた。でも、オペレーターの佐藤さんが「良い仕上がりになりましたが、基本は演奏がしっかりしていたからですよね。」とポツリと漏らすと、佐藤美香さんは満面の笑顔を浮かべていた。いい人と一緒に仕事をすると大切なことを教えてもらえる一例だ。
だがレコーディングというのはCDを作るための事前準備であり、本当に大変なのはできたCDを買ってもらうことだ。やっと売る物が入荷した。さあ、本当の戦いはこれからだ!(完)
佐藤美香1stアルバム
『風笛』
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